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全日本クラシックカメラクラブ
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2009年3月の研究会はノンセクションでしたが、サブテーマとして「シネカメラ」が取り上げられました。それに因んで、フジカシングル8 P1の生みの親でデザイナーであった水川繁雄さんに「フジカシングル8」開発記を発表していただきました。この発表内容を研究会報告としてとりまとめ書いていただきました。
- シングル8カメラ開発 -
かつてアマチュア用の8mmムービーカメラといえば「シングル8」シリーズという時代もあった。大方の人達にとってすっかり過去のものと思われているかもしれないが、「どっこい今でも生きている」のである。フィルムの生産、現像サービスは未だ続いているので、久しぶりに皆さんも画質の良い8mm映画を撮ってみてはいかが。きっと懐かしいと思われるだろう。フィルムは大手のカメラ店では大抵置いてあり、現像も受付けている。
■ シングル8序章
このシステムのフィルムは富士フイルム株式会社が開発し、カメラシステムは子会社である富士写真光機株式会社(現フジノン株式会社)で主に開発生産されたものである。筆者は富士写真光機株式会社で工業デザイナーとしてこのシリーズの最初の製品「フジカシングル8 P1-1965」(写真1)から最高級機「フジカシングル8ZC1000-1975」を経て最終製品「フジカシングル8P2 Zoom-1979」までこのカメラシステムの一生にかかわってきた。映像の長い歴史の中でも一部のマニア達の映画作りの機械でしかなかった8mmを、ごく普通の人達が「日常の動く映像」の記録の道具として大衆化することに「シングル8」は貢献できたと思う。「シングル8」は現在一般的な「ミニDV」から考えると3世代前の8mmフィルムムービーシステムである。
富士フイルムがこの「シングル8」システムを開発する時に故西村雅貫さん(甲南カメラ研究所長)の知恵をずいぶんいただいている。彼は先見性のある大変優れたカメラ開発者であった。カメラは使うために「写真術」を必要としないような、女、子供でも間違いなく使えるように操作を自動化するべきだと主張し、多くのアイディアを出された。8mmカメラでは最初から8mm幅のフィルムをマガジン入にして装填は「マガジン ポン」とできるようにして、ASA(ISO)の感度も自動設定にするという提案であった。
■ スーパー8発表のショック
「シングル8」は最初「ラピッド8」として生産準備。東京オリンピックの年をターゲットに開発。世界戦略をコダックにも働きかけた。日本13メーカー、アグファ、ベルハウエルが開発に参加ということになった。ところが1964年、前から富士フイルムが「ラピッド8」のマガジンの諸元を渡して一緒にやろうという働きかけに対し言を左右していたコダックが、この年春のIPEXショーですっかり新しい8mmとして「スーパー8」のシステムを突然発表したのである。マガジンの構成は「ラピッド8」のマガジンとはまったく異なり、フィルムリールを左右に並べたため分厚く、ごろんとしたマガジンである。しかし最大の特徴は画面サイズを従来より面積で1.5倍も大きくしたことである。
富士グループにとってこのショックは大変なもので「逆真珠湾攻撃」のようなものであった。すでに量産に入り数千台もでき上がっていた「ラピッド8」のカメラとフィルムの生産はただちに中止命令が出た。そして対応策をどうするかということで上を下への大騒ぎとなったのである。マガジンシステムはコダックのものより優れている(薄くコンパクトで、全巻巻戻しが可能、フィルムの種類が豊富、カメラの設計自由度が広い)、だから「ここまで作ってきた物を捨ててはもったいない、このまま生産を続けるべき」という意見、「コダックに逆らったのでは勝目は無いから従わなくては」とか、その後の方針はなかなか決まらず、生産現場、設計サイドは一時ストップのまま半年以上の塩漬け状態が続いたのでメンバー達はすっかり腐ってしまった。当時の富士フイルム社長の決断により、「ラピッド8」のマガジンの大きさはそのままだが、画面サイズはスーパー8に合わせて大きくするという事が決まった。それからが大変である。画面が大きくなるとフィルムの全長も長くなり従来通りのTAC(トリアセテートベース)のフィルムではこのマガジンの大きさでは10mしか入らない。その為新しく開発された30%薄いPET(ポリエステルベース)を採用することになった。
スチルカメラの方で簡易装填の「コダック インスタマチック」と「アグファ ラピッド パトローネ」騒動がおきた時、富士としてはラピッドパトローネ陣営に加わる見返りとしてアグファに新8mmシステムでは富士のマガジンを採用する様働きかけた。アグファはこの技術に感心して賛同、協力する事になったので、両社ではこのフィルムシステムを「ラピッド8」と呼ぶことに一旦はなった。しかし当時アグファではPETベースフィルムの技術が無く、従来の厚いTACベースしか生産できないので、このマガジンでは10m入りのものしか作れなかった。その時の名残が初期のフジカシングル8カメラのカウンターに10mのところの赤ポチとして残っている。これはアグファの10mシングル8のマガジンのエンドマークなのである(写真2)。アグファは「ラピッド8」のフィルム、後には「シングル8」フィルムまでは試作したものの、その後「ラピッドパトローネ」の失敗と共にスーパー8の陣営に下り、アグファシングル8フィルムはフジカシングル8カメラのカウンターに赤ポチを残しただけで夢と消えた。
■ 最初のシングル8カメラの試作機
「シングル8」フィルムのテストには最初の頃はダブル8の「ボレックスH8」を改造したものを使って駆動テストをおこなっていた。マガジンが完成に近付くと実際の試作機を作ろうということになりデザインについては前年入ったばかりの新米デザイナーであった筆者に設計命令が与えられた。その時の条件は、「シングル8のマガジン」を使う2倍ズームレンズの付いた、単3×4本電池駆動、自動露出のできるだけコンパクトな大衆カメラということで、最大の目標は試作カメラを大至急作り上げることであった。時間最優先で設計するために、従来技術の常識的なメカ配置で機械設計者は構想設計を始め、私はそれに従ってデザインを進めた。
その為従来のダブル8同様フィルムとメカニズムを横並びに配置したので、ごろんとした太めのカメラであった(図1)。これは2台の試作品だけに終わったが、様々な機能実験に使われ多くの基礎データを得ることができた。
■フジカシングル8 P1 -発売された 最初のシングル8カメラ-
1962年フジカシングル8 P1は新しい機械設計者と私が組んで、最初の試作カメラによって得られたノウハウを生かして設計を始めた。
■ 第一次デザイン
フジカシングル8 P1は今までにないユニークさを打ち出すため、デザイン先行でことを進めた。世の中の機械設計者の中には機能、諸元、パーツ寸法が定まってからでないと開発設計ができないと考えている人もあるが、これは生産設計を開発設計と勘違いしている人である。世の中にまだ形の無いユニークなモノを創り出そうとする人は、ミノックスの設計者ワルター・ツァップのように形や大きさを先に決めて開発設計を始めることがあるのだ。P1デザインを始めるにあたって、私はデザインの基本方針を次のように考え、形を作り始めた。
1. 一目見てシングル8カメラとわかるようなユニークなデザインにする。
2. その為にシングル8のマガジンを生かして徹底的に薄いボディを特長とする。
3. ボディとグリップを別体にしてコンパクトさを強調する。
4. シャープな感じとやさしい感じを両立させる。
5. お母さん達が使って判断に迷うような余計な機能は極力取り去る。
最初は電気設計者が単2電池1本で駆動できるということでアイディア(図2)を作り始めたが、先行テストの結果それは無理で他社と同様に単3電池4本が必要ということになった。駆動モーターも当時の技術では結構長い物を使わざるを得なかったので、電池とモーターを一緒にしてグリップに入れて、グリップは少し太くなるかわりにボディは徹底的に薄くすることにした。この段階ではファインダーを視野率0.2倍の大変細い物で考えていた。石膏モデルを作ったが、横に付けた細いファインダーから早速「いきな横櫛」というニックネームが付いた(写真3)。
具体設計が進むにつれてイメージデザインから少しずつ大きくなり形も変化していった。ファインダーは倍率を上げる為部品寸法が大きくなったが、ボディを少しでも小さく薄く見せたいので、ファインダーをボディの上に積上げた形のデザインにした。この当時私はオートカレナのデザイン(図3)が大変気に入っていたのでそのボディ、ファインダーカバー、軍艦部、グリップという構成でデザインを進めた。そうすると今度のデザインの木型に早速みんなは「ちょんまげ」というニックネームをつけてくれた(写真4)。 第一次のデザインで作った試作機が(写真5)である。ボディを徹底的に薄くするためにこの部品構成の中で一番幅の広いセクター(円盤シャッター)の部分だけを必要最小限出っぱらせその片側には蓋の開閉キーをおさめた。軍艦部はシャープさを出すために前面角に面取りをほどこした。デザイナーとしては日本刀の鋭さをねらったつもりが、全体の雰囲気から「そりゃ日本刀でなく鉈だよ」と言われてしまったが。
カラリングはボディを白、軍艦部とグリップの電池キャップはクロームメッキ、ファインダーカバーは銀色塗装、大きな円形カウンターは真っ赤でクロームリング付きである。私のデザインの基本方針としてなるべく表示と操作関連の部品は大きくして、見やすく使いやすくと考えていたのである。名称の「petit
8」は正式なものではなく、何か適当に付けておいてくれということで私が勝手に決めたものである。この段階では海のものとも山のものともつかないので、まわりのうるさい人達はまだ見過ごしていて、デザイナーがこんな風に遊んでいることができたのである。やたら会議で物事をややこしく決めるようになる前の懐かしく良き時代のことである。これが一旦売れ出したらみんなが係わりたがってこうはいかなくなる。
■ 第二次デザイン
それまでの逆ガリレオ式の小さなファインダーでは見えが良くないのが問題になり、改良することになった。部品代は随分掛かるが、オートカレナのように実像ファインダーにすることになった。これで今までとは比較にならない程見えが良くなり、ファインダーの中に絞り情報も表示できた。
デザインも最終的にはこのスケッチの様にもっとシンプルな形に作り込んだ(図4)。この形で量産が始まったが、最初本体の色は薄緑のメタリック、グリップはクリーム色、その他の部品はクロームメッキであった(写真6)。営業にはこのデザインは変わり過ぎている、今売れているニコレックスのように四角いデザインが良いと言われたものだった。
先に述べたように、この段階で画面サイズをスーパー8に揃えるということなり、システムの名前は「ラピッド8」から「シングル8」と変えられた。でき上がった製品はすべて廃棄。レンズや駆動関係のメカをでき上がっているダイカスト等の型を最小限の変更で作り替えようということになり、今度は大至急で遅れを取戻せということになって現場は大変だった。この難事をみんなで頑張ってなんとか1965年4月にやっと発売にこぎつけたのである。今まで常にコダックの新システムに従って来た富士フイルムが、マガジン形状だけでも独自性を打出した最初の例となるだろう。
■ シングル8は成功した
シングル8 P1が成功した原因の一つにテレビコマーシャルがある。「マガジン ポン!私にも写せますウ!」という前参議院議長 扇千景さんの若かりし頃のそれは大変な評判で、それまで8mmのユーザーとしては無関係だったお母さん達もふり向かせたようである。このカメラは富士フイルムグループの製品としては初めての1966年のグッドデザイン(Gマーク)を得ることができた。その後12年の間多少の変化をしながらも売れ続けたのだから、スタート機種としては大きな成功をおさめたと言えるだろう。このカメラの成功の原因は、余計な機能は取去り必要なものだけにして、間違いを起こすような判断をユーザーにさせないことだと思う。それと世の中の要求を先取りした開発ができたことだろう。今時の家電製品、パソコン、デジカメや携帯電話など余計なオマケ機能をやたら盛込み過ぎて、本来の機能をかえって使いにくく、しかも間違い易くなっているのは大変困る。これらもユーザーが本当に使いやすいよう原点に立ち戻って考え直して欲しいものである。撮影レンズについては固定焦点のフジノンF1.8/11.5mmというややワイド気味だが、これは屋内で手軽に家族を撮るのに良い様にという狙いであった。 このレンズは優れたレンズでP1やC100、そして最後の生産機種P2にまで使われロングセラーである。
この間違えられないように作ったP1でも失敗は起こり得た。その印象に残る一つは、全巻を通じて赤いぼやけたものがもやもやと映っているという例である。調べてみたところP1を初めて使ったその奥さんはカメラを前後反対に構えて、親指でシャッターを押しながら撮ったので、全巻にわたって自分の口がぴんぼけで映っていたのである。P1のファインダーは見えの良い実像ファインダーであるが、反対側から見てもはっきりと見る事ができたのである。思ってもいなかった使い方で、これには参った。
フジカシングル8 P1の爆発的な売れ行きで家庭向き8mmの普及が始まった。これに目をつけたアメリカ人の工業デザイナーが売込んで来てかき回されたこともあった。しかしその後も色々な発展があり、シングル8は日本のムービー業界を席捲することになる。
かつて8mm映画を写していた皆さん,是非もう一度昔撮った8mmの作品を今又見ていただきたい。「個人の為の動くタイムカプセルとして」私たちは「シングル8」を作って来た。写した当時のその時間がそっくり蘇るのである。これは何万枚のスチル写真を積み上げてもはたせない。是非お子さん達にも見せてやって欲しい。今のビデオカメラの時代と違って、その当時8mmを撮っていた人はごく少なかった。ご近所の方も一緒に映り込んでいたら見せてあげて欲しい。映写機がない場合、8mmフィルムからDVD、VHS、MD等のビデオ素材に変換してもらう事ができる。近所の写真、カメラ屋さんから富士フイルムへ出すか、今や唯一のフィルムムービー専門店「レトロ通販」03-3829-2776に頼めば加工してもらえる。
参考文献
・ カメラレビュー「クラシックカメラ専科」No.44「富士写真フイルムのカメラ」
・ カメラレビュー「クラシックカメラ専科」No.76~79連載「シングル8カメラ」開発物語 1~4
'09/3月研究会持参カメラ一覧・・・基本的には持参者の記入通りとし明らかに誤記と思われるものは(編)で修正しました (敬称略、50音順)
今回はノンセクションとサブテーマのシネカメラに分けて表を作成してあります。
ノンセクション
持 参 者 |
カ メ ラ 名 |
製 造 会 社 |
フィ ル ム |
国 名 |
発売年 |
浅沼宣夫 |
セミドリスP |
東京精機 |
120(6×4.5cm) |
日本 |
1952 |
コニレットⅠ |
小西六写真工業 |
コニレットサイズ(36×30mm) |
日本 |
1953 |
コニレットⅡ |
小西六写真工業 |
コニレットサイズ(36×30mm) |
日本 |
1957 |
コニレットⅡM |
小西六写真工業 |
コニレットサイズ(36×30mm) |
日本 |
1959 |
稲田裕之 |
イコンタ 520/2 メートル表示、ノバー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1929 |
イコンタ 520/2 フィート表示、ノバー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1929 |
イコンタ 520/2 ファインダー付き、ノバー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1932 |
神藤弘充 |
イコンタ 520/2 メートル表示、ノバー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1929 |
イコンタ 520/2 フィート表示、ノバー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1929 |
イコンタ 520/2 メートル表示、テッサー |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1930 |
パール8年型 |
六櫻社 |
120(6×9cm) |
日本 |
1933 |
高井弘善 |
ホークアイNo.2A |
イーストマン・コダック |
116(6.3×10.8cm) |
アメリカ |
1913 |
高島鎮雄 |
ミノルタ |
モルタ合資会社 |
乾板(6.5×9cm) |
日本 |
1933 |
アルバ64 |
アルビーニ |
乾板(6.5×9cm) |
イタリア |
1914 |
フォールディング・ルビー |
ソーントン・ピッカード |
乾板(8×10.5cm) |
イギリス |
1955 |
竹内久彌 |
アルザフレックス(眼底カメラ用改造機) |
アルザフォト |
135(24×24mm) |
フランス |
1951 |
鍋田道雄 |
ハッピー |
モルタ合資会社 |
120(6×9cm) |
日本 |
1935 |
藤岡俊一郎 |
ミロフレックス(A) |
ツァイス・イコン |
120(6×9cm) |
ドイツ |
1927 |
藤森 惇 |
ライカⅢG+Visoflex Ⅰ型 |
ライツ |
135(24×36mm) |
西ドイツ |
1957 |
ミニチュアクラップ(前期) |
エルネマン |
乾板(4.5×6cm) |
ドイツ |
1907 |
山前邦臣 |
ズマム・ステレオ 6×13 |
ルイエ |
120ホルダー(6×13cm) |
フランス |
1925 |
パノラスコープ |
シムダ |
16mm(13×18mm) |
フランス |
1955 |
シネカメラ |
持 参 者 |
カ メ ラ 名 |
製 造 会 社 |
フィ ル ム |
国 名 |
発売年 |
岩崎敏彦 |
シネマックス・トリオート |
瓜生精機 |
ダブル8 |
日本 |
1960 |
小滝日出彦 |
アルコ8-K (6.5、13、38mmのレンズ付き) |
アルコ写真工業 |
ダブル8 |
日本 |
1957 |
鈴木恭一 |
モトカメラ(Motocamera) |
パテー(Pathe) |
9.5mm(カセット) |
フランス |
1928 |
フィルモ121 |
ベル&ハウエル |
16mm(マガジン) |
アメリカ |
1934 |
マガジンシネコダック |
イーストマン・コダック |
16mm(マガジン) |
アメリカ |
1936 |
オリンピックK35 |
キーストン |
ダブル8 |
アメリカ |
1950 |
高井弘善 |
パテーベビー |
パテー(Pathe) |
9.5mm(カセット) |
フランス |
1923 |
インスタマチック M22 |
イーストマン・コダック |
スーパー8 |
アメリカ |
1970 |
長谷川幸也 |
シネコダック8 モデル60 |
イーストマン・コダック |
ダブル8 |
アメリカ |
1932 |
林 輝昭 |
シネコダック8 モデル60 |
コダック A. G. |
ダブル8 |
ドイツ |
1932? |
ムビフレックス スーパー |
ツァイス・イコン |
ダブル8 |
西ドイツ |
1963 |
ライキナ 8V |
ライツ |
ダブル8 |
西ドイツ |
1960 |
ライキナ スペシャル |
ライツ |
スーパー8 |
西ドイツ |
1975 |
ボリュー 5008S |
ボリュー |
スーパー8 |
フランス |
1975 |
林田吉弘 |
ボレックス B8L(イバー13mm、38mm付) |
パイヤール(Paillard) |
ダブル8 |
スイス |
1958 |
134 コンパニオン |
ベル&ハウエル |
ダブル8 |
アメリカ |
1939 |
キヤノンモーターズーム8 EEE |
キヤノンカメラ |
ダブル8 |
日本 |
1962 |
ニューフジカシングル8 P300 |
富士写真フイルム |
シングル8 |
日本 |
1972 |
水川繁雄 |
フジカシングル8 P1 |
富士写真フイルム |
シングル8 |
日本 |
1965 |
山口 満 |
オイミッヒ サーボマチック |
オイミッヒ |
ダブル8 |
オーストリア |
1958 |
リベアエイト 60 |
リベア |
ダブル8 |
アメリカ |
1947 |
嶋田 健 |
紅旗(Hong qi) S16 |
甘粛光学儀器廠 |
16mm |
中国 |
1970s |
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