平成20年7月12日(土)午後2時から7月の研究会がJCII6階の会場で開かれ、約45名の参加者がありました。最初に高島会長から秋の写真展や秋の撮影会などについて説明があった後、今回のテ-マである「戦前(1945年8月15日以前)に製造された国産カメラ」の研究会に入りました。最も多く集まったのはやはり小西六系のカメラでしたが、見たこともない、会社名も分らないといったカメラも登場しました。
今回は戦前という題がついていますので、最初に日本のカメラ創成期も含めた明治末頃までの歴史を簡単に振り返ってみます。日本に最初にタゲレオタイプのカメラが上陸したのは1848年で、薩摩藩などいくつかの藩が銀板写真の撮影や研究を行いました。しかし1853年頃には湿板写真の技術が輸入され、銀板とは比べ物にならないほど露光時間が短く取り扱いも容易だったため、以後日本で撮影される写真は湿板式になります。現在我々が目にする幕末や明治初期に撮影されたものはほとんどが湿板写真です。
写真撮影を仕事にする写真師が増えるにつれて、日本でもカメラの製造が行われだします。東野進氏の研究によると、日本最古のカメラメーカーは堆錦カメラを、1854(安政元)~1863(文久3)年にかけて製造した味田孫兵衛の牧田屋です。堆錦とは、漆に弁柄などを混ぜて色付けかつ粘土状にし、それを金型で圧して花鳥などの模様にして、ボディに張りつけることを言います。牧田屋はボディだけでなくレンズや鏡筒も作っており、全て日本製なのは特筆されることと思われます。レンズも当時の実用には耐えたそうです。現存しているものでは3台が知られています。
しかしこの後には優れたレンズが西洋から輸入されるようになったため、日本では指物師などが作る暗箱と外国製のレンズを組み合わせる時代が長く続きました。1868(明治元)年開業の玉屋松三郎、1878(明治11)年開業の石橋松之助は暗箱を専門に製造販売しました。1871(明治4)年に開業した浅沼商会、1873年開業の小西六兵衛店から1876年に移転と改名をした小西本店は、総合的な写真器材店でしたが、レンズは輸入品でした。この頃輸入されたレンズはイギリスのロスおよびダルメヤー、フランスのエルマジーおよびクレメント(クレマン)・ギルマー、ドイツのシュタインハイルなどです。
1880年代になると乾板が輸入され、写真撮影が画期的に容易になり、携帯性にも優れたことからアマチュアの写真家が増えていきました。カメラも携帯に便利な、所謂ハンドカメラ、手提暗函になっていきます。1889(明治22)年には、京浜地区のアマチュア写真家に写真師や写真材料店が加わって、日本最初の写真同好団体の日本写真会が誕生しました。1890年の日本写真会例会では、浅沼商会が、コダックが前年に発売したばかりのロールフィルムカメラ、No.1コダックを展示しています。この年には日本最初の写真コンテストも行われました。
1894(明治27)年の日清戦争では、大本営が組織した写真班に小西本店がダルメヤーのレンズ(広角と望遠を含む)と四つ切携帯用3段伸ばし暗函などの器材一式を納め、威海衛や旅順などの戦況が撮影されました。また小西本店は1895(明治28)年に、アマチュア写真家として有名だった鹿嶋清兵衛の注文により、全紙4倍画面の超大型暗函を製造しています。このカメラは九代目団十郎の歌舞伎座公演に合わせて作られたもので、乾板の注文を受けた英国マリオン社は、間違いではないかと問い合わせたそうです。なお世界最大のカメラはアメリカで作られ、画面サイズは何と1.4×2.4m、重量は4.7トンもありました。このカメラで撮影した写真はパリ万国博に展示されました。
エッフェル塔が造られた1900(明治33)年のパリ万国博は、4年前に映画を発明したリュミエールの巨大スクリーンへの投影など、多くの大映像デモンストレーションが行われ、以後万国博では映像による展示が継承されていきます。カメラも各国からマホガニーやチーク材を使った暗箱が多数出品されましたが、日本からは浅沼商会製の桐材を使った非常に軽量なものが展示されました。パリ万博はそのユニークさと品質の良さからこのカメラに対して第2等銀牌を授与しています。
日本最初のアマチュア向けカメラは、1889(明治22)年頃に有田商会が発売した手札(8×10.5cm)半裁判ボックスカメラの「軽便写真機」でした。この会社は1891年には東京写真館と改名し、大正の半ばまで写真機械および材料販売を行い、外国のカメラも販売していました
上田写真機店は1901(明治34)年に児童用として手札四つ切写真機「ぶりたにあ零番」を発売しました。このカメラのサイズは後にスイート判あるいは零判と呼ばれる元祖となります。また銀座博真堂から1902年に「ザールハンドカメラ3号」が発売され、同じものが東京写真館からも「キングカメラ」として発売されました。このカメラは完全国産設計と言われています。
小西本店はそれまで営業写真家用機材を製造していましたが、1903(明治36)年に反射ファインダー外付けの名刺判(6.5×9cm)ボックスカメラ、「チェリー手提げ暗函」を発売してアマチュア向けのカメラを造り始めました。このカメラや1907年に東京写真館から発売された「サンカメラ」は、イギリスのブッチャーから発売された「リトルニッパー」とほとんど同じ機構や外観を持っています。「リトルニッパー」は浅沼商会から「児童用ニッポンカメラ」、上田写真機店からは「三ブイカメラ」として輸入販売されていましたが、正確にはドイツのヒュティッヒがブッチャーにOEM供給したもので、オリジナル名はグノム(Gnom)です。小西本店は翌年に縦および横のファインダーを内蔵した手札判の同名カメラを発売し、これは独自の設計と言われています。
小西本店はその後六櫻社を作り、下請け業者でなく自社の工場で器材を製作するようになり、最初の製品「櫻印手提暗函」を日露戦争の終わった翌年の1906年(明治39)に発売しました。これはベースボード型の蛇腹式フォールディングカメラで、翌年には「さくらポケットプラノ手提暗函」に改装されました。以後多くのカメラを作っていきますが、当時の製品は米英のカメラの完全模倣品といえ、有名なものでは1907年発売で日本最初の4×5インチ判大型一眼レフの、「さくらレフレックスプラノ」があります。この原型はロチェスター社の「レフレックスプレモ」で、レンズにはB2テッサーやダゴールまで用意されていました。
小西本店は六櫻社製のカメラとして、1909(明治42)年の1月から2月にかけて、ロールフィルムと乾板兼用の手札判ベースボード型フォールディングカメラの「パール手提暗函」3号と4号、手札乾板カメラの「リリー手提暗函」、キャビネ判(12x16.5cm)乾板およびパックフィルム用カメラの「アイデア」2号、4号、6号を一気に発売しました。これらのカメラはそれまでの米英製品の完全模倣でなく、主としてドイツのカメラに範をとりながら自己のアイディアを加えたもので、カメラメーカーとして新たな前進を始めた時と言えます。以後小西本店は日本のカメラメーカーとして確固たる地位を固めていきます。
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