2008年第3回の研究会は、5月10日14時から開催されました。
今回の研究会のテーマは「カメラ名または製造会社名がG、H、I、またはJで始まるカメラ」です 。カメラ名では、G、H、Iがほぼ均等に分布していますが、メーカー名では、GとIに集中しました。国産と外国産では、何時ものとおり外国産が多いのですが、今回は珍しい国産カメラがいくつか現れたことと、萩谷さんの演題に合わせて国産カメラを中心にご紹介いたします。
最初は、服部豊さん持参の「ハーライト(Herlight)」です。1947年、大船光学機械製作所が製造した127フィルム使用の4×4cm判ボックスカメラです。ボディはアルミの鋳物で、くすんだ焦げ茶色に塗られています。萩谷さんの書かれた「ズノーカメラ誕生」によると、JCII所蔵のもの、某コレクター所蔵のものとの2台が確認されているとのことです。某コレクターとはどなたのことかは分かりませんが、服部さんのコレクションとすぎやまこういちさんの「図鑑」に掲載されているものを加えると、少なくとも3~4台は現存していると思います。また、35mm判のハーライトが試作されたものの、何らかの理由で4×4判に変更されたとの記載がありました。もしこのカメラが製造・発売されていれば、35mm判で縦長の画面を持つ世界唯一のカメラが誕生した筈でしたが、残念ながらこれは幻のカメラで終ったようです。
6×4.5判のスプリングカメラ「ゼノビア」や6×6判二眼レフの「ゼノビアフレックス」を製造していた第一光学は、1954年に発足した日本写真機工業会の創立会員社の一つです。しかし、経営に往き詰まったためか、翌1955年5月に退会しています。国産カメラの歴史(アサヒカメラ編)によると、第一光学の広告は1950年から1955年までで、1956年以降、ゼノビア関連の広告主はゼノビア光学に代わっています。
バルナックのコピー機のひとつである「イチコン-35」は、1954年に第一光学から発売されます。第一光学にはフォーカルプレンシャッターの技術はなかったことから、別の技術者集団が製品を持ち込み、第一光学のブランドと販売チャネルを利用したものと思われます。標準レンズに小西六製のヘキサノン50mm/F3.5が装着されており、その後もヘキサノン50mm/F1.9が供給されているところから、小西六と関係のあった技術者集団の可能性も考えられます。板橋と小西六との関係はかなり深いようです。
第一光学が破綻した翌1956年以降、イチコン-35のグルーブは再建されたゼノビア光学から離れ、カメラ名を「オーナー(Honor)」として目白光学から発売します。しかし不思議なことに、軍艦部にはHONOR Opt.と彫刻されています。製造番号の刻印が「S1-」で始まるところから、S1型と呼ばれています。翌1957年からは、製造元、販売元が瑞宝光学精機に代わり、軍艦部の刻印もZuiho Opt.
Ltd.となりました。製造番号に頭についていたS1-は消えました。
藤岡俊郎さん持参の「オーナーSL」は、イチコン/オーナーシリーズの最終モデルで、1959年に発売されました。風貌は、バルナックタイプからキャノンL/VLタイプに変リました。軍艦部の梨地クロームメッキを始め、各部の作り込みは大変綺麗で雑なところは見あたりません。
ボディ本体はS1をそのまま流用しており、従来どおり裏蓋と底板が一体で取外せます。軍艦部は一新され、ファインダーは等倍の一眼式連動距離計内蔵となりました。標準レンズの視野を示すアルバタ式のブライトフレームがはいりましたが、パララックスの自動矯正には対応していません。フィルム送りはレバー巻き上げ、巻き戻しはクランクとなり近代化が図られました。文献によれば、標準レンズは、オーナー50mm/F1.9と同50mm/F2ですが、藤岡さんのレンズはオーナー50mm/F2でした。製造台数はわずか500台程度、国内での広告活動がなかったことから、輸出専用機だったと言われています。
伊東幸男さんと藤岡俊郎さんが持参したホビックス シリーズは、東郷堂が製造・販売したボルタ判フィルムを使用するカメラです。ボルタ判は、1935年頃、ニュールンベルク(ドイツ)のボルタ ヴェルク(Bolta Werk)が製造したカメラ「ボルタウィート(Boltavit)」用に開発された裏紙付きの無孔35mm幅フィルムです。オリジナルの画面サイズは25×25mmですが、元祖ドイツでは、ボルタウィート一代で終わり後継機種はありませんでした。日本では、1938年にされた宮川製作所の「ボルタックス」が最初で、第二次世界大戦後も素早く復活し、1960年半ばまで多くのメーカーが製造し続けました。 画面サイズは1種類ではなく、東郷堂製品だけをみても、オリジナルの25×25mmのほかに、24×24mm、24×32mm10枚撮り、24×36mm10枚撮り、28×28mm12枚撮り、30×30mm12枚撮りの5種類が数えられます。
ホビックスのシャッターは最速1/200秒で、全てシンクロ接点が用意されており、エントリー モデルとしては贅沢な仕様になっています。JIS-A型(通称コダック端子)付きのモデルを前期とし、JIS-B型(通称ドイツ端子)付きのモデルを後期型とわけており、伊東さんの「ホビックスDⅡ」は前期型、藤岡さんのDⅡは後期型に属します。しかし、「ホビックス ジュニァ」以降は、35mmカメラにおされて、スペックダウンを余儀なくされました。
篠崎光宏さんのセミホビックスは、同じく東郷堂の製品で、120フィルム半裁の沈胴式リジットカメラです。セミホビックスの広告は、1953年6月のアサヒカメラが初出で、筒型のファインダー付き、翌7月号にはボディシャッター付きに改装されて発表されています。いずれも実売されたかどうかはわかっておりません。篠崎さんのコレクションモデルは、1954年2月号のアサヒカメラの広告に掲載されています。
第二次世界大戦を挟んで作られ続けたカメラの一つにゲルトがあります。井上秀夫さん、篠崎光宏さん、馬淵勇さんのコレクションが並びました。篠崎さんの「ゲルト(Gelto)Ⅰ」(オリジナル)は、高橋光機が1936年に製造を始めた沈鏡胴のリジッドカメラで、画面サイズは127フィルム半裁です。初出はアサヒカメラの1937年1月号の新製品紹介で、引き続き同年3月の同誌に服部時計店写真部出稿の広告として掲載されています。社名は、東亜光機と改められますが、当時の社会状況を反映していて感慨深いものがあります。井上さんの「ゲルトDⅢ」は1938年の東亜光機製で、赤窓に金属カバーがつきました。篠崎さんの「ゲルトS」は1941年の発売で、フィルムが自動捲き止めとなりました。馬淵さんの「ゲルトDⅢ」は敗戦後のモデルで、製造社名は新和精機と変わりました。これも時代の流れに沿ったものでしょう。
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