スイスのズーター社(E. Suter, Basel)が製造したベスト半裁の金属製ボックスカメラ。スイスボックスは1941年生まれ、リリプットはその改良型と言われており、シャッターボタンがボディ側面から天板に移動した。塗装は黒・緑・赤・青の4色の結晶塗りでかわいいカメラである。スイスボックス、赤のリリプット、青のリリプットは竹内久彌さんのコレクション、緑のリリプットは小林泰人(745)さんのコレクション。
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藤岡俊一郎さんのファインダーが固定されているプピレ(Pupille)初期型。
プピレはドイツのナーゲル社(Dr. August Nagel Camerawerk, Stuttgart)で製造したカメラで、製造期間は1930年から1935年。
1931年末、ナーゲルはイーストマン コダック資本の傘下にはいり、ドイツ コダック社(Kodak AG / Dr. Nagel Werk, Stuttgart)として再出発しした。従って、プピレのうちナーゲル社で製造されたものは1931年以前に限られ、それ以降はコダックAG製のプピレとなる。
巻き上げノブを見ると、1930年製には Dr. Aug. Nagel Stuttgart と彫刻されているが、1932年以降はKodak Dr. Nagel Werk Stuttgartに変わる。
標準装備のファインダーは折り畳み式だが、左隣の受け穴を使って反射式ファインダーを並べて差し込める。また、専用のアクセサリーシューを差し込んで、ライツの単独距離計を取り付けることもできる。
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(上右の写真)
中田慎一さんのプピレ。ファインダーが取り外し可能となったモデル。アクセサリーシューを差し込んで距離計を取り付けている。
(上左の写真)
中田慎一さんのプピレ。フォーカシングファインダーを取り付け、ウエストレベルの二眼レフとして使う。撮影レンズと連動するフォーカシング ファインダーの提供は1932年。このため、1931年以降のプピレでは、標準のファインダーが取り外せるよう本体の仕様が変更された。
(右の写真)
同じく中田慎一さんのプピレ背面。フォーカシングファインダーを取り付け、アイレベルで使う。
(下の写真)
中田慎一さんのプピレとフォーカシングファインダー。6本の足のうち、後ろの4本がボディの穴に入り、前の2本がレンズの穴に収まる。ヘリコイドの繰り出しに連動してファインダーの対物レンズが前後する。 |
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ドイツのプラウベル社(Plaubel & Co., Frankfurt)が、1930年頃に製造を開始したベスト半裁のカメラである。1920年に発売となる著名なプレスカメラ「マキナ(Makina)」のミニアチュア版で、姉譲りのメカニズムは精密感にあふれている。
左は中田博さんのマキネッテ、クロームメッキのレンズボードがまばゆい。右は同じく中田博さんのマキネッテで明るいズープラコマー付。 |
ドイツのツェルト社がベストフィルム使用のカメラに与えた名称がドリーである。このベスト判・ベスト半裁兼用機は、セルフエレクティング式のフォールディングカメラで、撮影状態では、レンズボードはしっかり固定されてびくともしない。この時代のカメラの特徴で、フィルム専用機の他にフィルム・乾板兼用機がある。乾板とフィルムでは感光面の位置が物理的に異なるので、レンズの無限遠の位置も異なる。このためドリーでは、レンズボード下のレバーを180°回転させて位置の調整をおこなっている。
写真左はゾンニー、 ゾンニーはドリーの別名で本体はドリーと同じ。右はドリー。このドリーはベスト半裁、ベスト判と乾板のアトム判兼用機で、ヘリコイドによる距離合わせをもつ最高級機。いずれも小林昭夫さん所有。 |
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藤岡俊一郎さんのデルビーU、ドイツのフォス社(C. F. Foth & Co., Berlin)が1931年から1936年にかけて製造したベスト半裁のカメラで、シャッターはフォーカルプレンでB 1/25〜1/500秒、フィルム巻き上げとシャッターセットは連動していない。ファインダーの脇にセルフタイマーのセットレバーが見える。
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山前邦臣さんのデルビー ルクス。フランスのガリュス社(Usines Gallus, Courbevoie)が製造した4×3判のカメラ。1939年フォス デルビー(Foth Derby)のフランス版としてスタートしたが、第二次世界大戦後、アルミ研ぎ出しボディのデルビー ルクスで再出発した。間もなく「ビー」を抜いてデルルクス(Derlux)と改名して1952年まで製造を続けた。
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ドイツのツェー社(Zeh-Camera-Eabrik, Paul Zeh, Dresden)が、1930年頃に製造したベスト半裁のカメラ、ゴルディ(左)とコロプリント(右)、この二つは異名同一機種。
ツェー社はこのカメラをOEM供給しており、ローデンシュトック社(Rodenstock)からはイーゼラ(Ysella)名で発売されている。ファインダー脇のボタンを押すと前蓋が開き、レンズボードがガイドレールに沿って前進するフォールディング ベッド方式。畳むときには、レンズボード上部両脇にある二つのレバーを押すだけで収納できる。初期型ではレバーを押す位置がボード上端だが、次のモデルでは押し込みボタンの位置がやや下に移動した。左が山前邦臣さんのゴルディ、レンズはツェカナー、リムセットのコンパーとの組み合わせ。 右は馬淵勇さんのコロプリント、レンズ名もコロプリント、ダイアルセットのバリオとの組み合わせ。
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小林泰人さん持参のチェコスロバキアのコラル社(Vaclav Korar, Modrany & Prague)が製造したマルチフォーマットのカメラ、コラ。製造期間は1932年から1936年と短期間で、かつコラル社は1935年に経営破綻し、生産台数は僅か700〜1000台と言われている。使用フィルムとフォーマットとの関係は、127では4×4cmの12枚撮り、フィルム送りは赤窓。35mm無孔フィルムでは薄板のマスクをいれて3×4cmの36枚撮り、35mm有孔フィルムでは、同様にマスクをいれて24×36mmの36枚撮りとしている。 有孔・無孔とも35mmフィルムの装填は暗室作業で、長尺フィルムから巻き込む。左は初期のコラで、フロントパネルに円筒を熔接して、シャッターユニットとレンズを取り付けたシンプルな構造。レンズの焦点距離が75mmあるため鏡胴部が異様に長い。前玉回転による距離合わせ。右は後期のコラ。洗練された機能美が見事。ヘリコイドによる距離合わせ。レンズはテッサー60mm。 |
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服部豊さんのアルゼン。ゲルトの高橋光学が製造し、東京神田のアルスが発売元となって1938(昭和13)年に発売された4×4版のカメラ。アサヒカメラ昭和13年2月号に紹介されている。カメラの最大の特徴は、レンズキャップがボディに鎖で繋がっていることで、この鎖が大変貴重なもの。巻き上げノブを押しながら回す自動巻止め機構に故障が多く、完動品は少ない。
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高島鎮雄さんのヴェロ フォアーF。 販売元は大阪の「スター カメラ ウワークス」(広告のママ)、総金属製で精密感あふれる4×4判のカメラ。
1938(昭和13年)年1月からアサヒカメラに広告が掲載されたので、発売は昭和13年と見られます。同年10月号の上田写真機店(心斎橋)の広告では、C型、D型、F型の3機種が出現している。ヴェロ フォアー各型に共通することは、沈胴式の鏡胴、自動巻止めのフィルム送り、ボディシャッターといった先進機構である。
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(写真上左)
藤岡俊一郎さんのコマフレックス-S。興服産業光学部が1960(昭和35)年に製造した
4×4判のレンズシャッター式の一眼レフ。同年1月号のカメラ芸術に今月の話題として取り上げられているが、広告は見あたらない。スーパースライド用の輸出専用機種と見られている。レンズ交換はできないので、広角と望遠のコンバージョンレンズが用意されている。なお、興服産業の日本写真機工業会の登録社名は、同年5月に興和に変更している。カラーリングやファインダーフードの構造がベビーローライを踏襲しているのは、対米輸出のためか。
(写真上右)
笹沼弘さんのワルツオートマット 44。ワルツカメラ(Walz Camera)社が製造し、ワルツ(Walz)社が発売元の4×4の二眼レフ。1959(昭和34)年の発売で、同年7月号のアサヒカメラの新製品メモに紹介されている。見た目はローライフレックス グレイ ベビーのそっくりさんだが、距離合わせをノブからレバーによるヘリコイドに変更している。レンズはアメリカで知名度の高いズノーのF 2.8。
(写真左)
馬淵勇さんのロイコ。「東京京橋區の理研光學工業写眞機部」(広告のママ)が1940(昭和15)年に製造した4×4判のカメラ。同年3月のアサヒカメラの広告欄には、カイカ、キンシと共に発売の予告が出ている。理研光学の予告広告ではシャッターの最高速は1/250秒、しかし現物は1/200秒なのはなぜだろう。精度のでない1/250秒はあきらめ、1/200秒に仕様変更して発売したとの見方ができる。この推測が正しければ、発売年は1年遅れの1941(昭和16)年にる。
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